ぐらんぼん

乱読・積読・併読の本の虫による書評。

『鹿と少年(上・下)』 マージョリー・キナン・ローリングズ

鹿と少年(上) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-1)鹿と少年(下) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-2)
「仔鹿(子鹿)物語」というタイトルに馴染んでいたので、「鹿と少年」は突き放したような素っ気なさを感じる。しかし、甘さを廃したこの作品には、こちらの邦題の方がふさわしい。ちなみに、原題は「The Yearling」で、たんに「満一歳を過ぎた動物(ここでは鹿)」である。

日本に限っていえば、本書が児童文学の枠の中で語られてきたのは、「仔鹿物語」という邦題に拠るところが大きいのではないだろうか。
私自身、はじめてこの作品に触れたのは児童書を通してだったのだが、年齢の違いがあるとはいえ、当時感じた牧歌的な雰囲気と今回受けた衝撃との落差にしばし呆然としてしまった。子ども向けの本は、読みやすさを優先してたいてい抄訳で紹介されている。だが、削られ、簡略化されたエピソードの積み重ねが、登場人物たちの心情や作品の素晴らしさをくっきりと浮かび上がらせていることが、今回の新訳を読むとよく分かる。
子どもの頃読んでストーリーを知っている人も、是非この『鹿と少年』を手に取ってみてほしい。『仔鹿物語』とはこれほど過酷で奥の深い物語だったのか、と目が覚める思いがするはずだ。

『鼻/外套/査察官』 ニコライ・ワシーリエヴィッチ・ゴーゴリ

鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)
はじめてゴーゴリの「鼻」を読んだとき、「このおっさん、頭がおかしいんじゃないだろうか。」と思った。なんとも下品な表現ではあるが。
なにしろ、朝起きると自分の鼻がなくなっているのである。なんの前触れもなく、いきなり。しかもその鼻が、床屋が食べようとしたパンの中から出てくるのである。それで驚くのは、まだ早い。持ち主から独立した鼻は、立派な制服を着て町をのし歩いているのだから。ここまでくると、想像力の針は一気に振りきれてしまう。
外套・鼻 (岩波文庫)
私が読んだ岩波文庫には、ほかに「外套」という作品も収録されていた。そしてこれもまた、同じように変な物語なのである。
主人公は、しがない小役人。野心はなく、これといった趣味もなく、友だちと羽目を外すこともない。何が楽しくて生きているのか分からないようなこの男が、一大決心をして外套を新調する。ところが、爪に火をともすようにして買った外套を、その日のうちに追い剥ぎに奪われてしまう。
あらすじだけ書くと、男の惨めさが際立ってちっとも作品の良さが伝わらないのだが、これが滅法おもしろいのである。男の外套にかける執念、徐々に生活に張り合いが出てくる過程、仕立てた外套をもったいぶって渡す職人の姿など、真剣な人間の醸し出す滑稽さが、理屈ぬきに楽しい。

『初恋』 イワン・セルゲーエヴィチ・トゥルゲーネフ

初恋 (光文社古典新訳文庫)
本書を手にして、自身の初恋にしばし思いを馳せる人は少なくないのではないか。
初恋なんて、その存在に気づいた時にはもう通り過ぎてしまっているものだと思うが、ウラジミールのような体験をすれば、忘れ難い想い出になるのだろう。
物語は、真夜中の一室で三人の男たちが自分の初恋について語るところから始まる。二人はとりたてて面白いエピソードではなく、最後の男に期待が集まる。40歳前後のその男はもったいぶるように、自身の体験を手記に書いてきてそれを他の二人に読み聞かせる。その手記が、本書のメインである。

16歳のウラジミールは、5歳年上の公爵令嬢・ジナイーダに恋をする。初恋にしては遅いが、真面目な貴族のお坊ちゃんなら、年頃の女性と出会う機会も少なかったのかもしれない。はじめて芽生えた感情に戸惑いながら、彼女の一挙手一投足に狂喜乱舞するウラジミール少年。
このあたり、恋愛中の心理状態をうまく描いていて、身につまされるものがある。ああ、分かるなぁと特に共感したのが、この文章。

『宝島』 ロバート・ルイス・スティーヴンスン

宝島 (光文社古典新訳文庫)
『宝島』を知らない人っているんだろうか。
子どものための世界文学全集の中に必ずといっていいほど入っていた上に、「男の子におすすめの児童書」の筆頭に挙げられていた覚えがある。たくさんの翻訳が出されているのも、人気の高さを物語っているといえるだろう。
ただ、子どもの頃『宝島』で繰り広げられる冒険に胸躍らせた読者でも、この作品の小説としての素晴らしさを知っている人は、案外少ないのではないだろうか。かくいう私がそうだった。これまでの『宝島』が、児童文学として紹介されていたのに対し、大人の鑑賞に耐えうる作品として提示してみせたのが本書の新訳である。

『肉体の悪魔』 レーモン・ラディゲ

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)
学生時代、やたら文学通ぶる同級生がいた。ひとり悦に入っているだけなら結構なのに、なぜか私に絡んでくる。「太宰はさぁ」「ゲーテはさぁ」と作家の言葉を語る彼のことが、「ブンガク、ブンガク」と鳴くオウムに見えて仕方がなかった。私の興味は、「なにを読んだか」ではなく、「なにを考えたか」にあったので(悪い人間ではないと思いつつも)、ただ鬱陶しかった。
そんな彼の口によくのぼったのが、「ミシマ」だった。純文学愛好者には三島由紀夫好きが多いように思う。私はかつて手に取った作品がちっともおもしろくなかったので(いま読めば違うのかもしれないが)、文学通に対する個人的な反感もあって、どうも三島由紀夫と相容れないものがある。そして嫌いになると、その人間の趣味嗜好まで批判的な目でみてしまうものなのだ。