『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』 アドルフ・ブルガー

第二次大戦時、ナチス・ドイツがイギリスに対して仕掛けた偽札攻撃・通称「ベルンハルト作戦」。
秘密を外に漏らさぬため、この作戦には強制収容所の中から選ばれた囚人たちが従事させられた。著者のアドルフ・ブルガー氏は、ベルンハルト作戦にかかわり、生き抜いた一人である。昨年末、来日されたことは記憶に新しい。
少し前に読んだ『ヒトラー・マネー』で、私はある疑問を抱いた。
著者たちが苦心の末造り上げた偽造ポンド紙幣は、専門家ですら真贋を見分けられないほどの出来栄えだったという。なによりも彼らを駆り立てたのは、死の恐怖だったに違いない。
だが、恐怖だけで人はあれほど見事なものを造ることができるのだろうか。最初は嫌々だったとしても、手がけていく内に職人の血が騒ぐことや、仕事にやりがいを感じることはなかったのか。人はロボットではないのだから、何か強い動機づけがなければ完璧な仕事なんてできないと思う。たとえ、他の強制収容所の囚人たちより恵まれた環境だったとしても。当事者の胸の内を知りたくて、本書を開いた。
ところが著者は、(当然だが)通貨偽造という仕事になんのやりがいも誇りも感じていなかった。かといって、死の恐怖に怯えていただけでもない。
著者を駆り立てていたもの、それは「生き抜いて、この蛮行を伝える」という決意だった。生きる、ただそれだけが、死が日常茶飯事の場所ではどれほど困難で精神力のいることか。「ヒトラーの贋札」というタイトルだが、本書はベルンハルト作戦にかかわる前のアウシュヴィッツとビルケナウ強制収容所での生活に多くを割いている。飢えや病気や虐待で命を落とす仲間たち。「選別」され、ガス室へと消えたまま帰って来ない人々。多くの死を目の当たりにし、自身も死の淵に立たされた体験者の声は生々しく、鬼気迫るものがある。
偽造通貨を戦略面から捉えた『ヒトラー・マネー』と最も温度差を感じるのが、ベルンハルト作戦の責任者・ベルンハルト・クリューガーの人物像である。
『ヒトラー・マネー』では、クリューガーの管理者としての有能さをクローズアップしていた。囚人たちを番号ではなく名前で呼ぶなど、人間的に扱う様子が描かれていたので、親衛隊にしてはまだ「マシ」なのかと思っていた。
しかし、本書の目線はまったく異なる。とくに戦後のクリューガーの振る舞いに対する著者の舌鋒は鋭く、怒気をはらんでいる。『ヒトラー・マネー』を読んだ人は、本書を是非読んでもらいたい。たとえ直接的でなくとも、人を殺した事実をけっして見過ごしてはならないのだ。
本書から痛いほど伝わってくるのは、亡くなった大勢の犠牲者のためにも歴史を風化させてはならない、との強い使命感である。
著者は、この言葉で筆を置く。「だから、私は生きている。」と。
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ヒトラー・マネー
ローレンス・マルキン
講談社 2008-01-11
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ベルンハルト作戦では当時の全流通量の約10%にもあたる偽ポンドが作られたが、もしも偽ドル作りが計画通りに行われていたら戦費調達に苦しんでいたアメリカにとって大きな影響を与えたであろう。
[2008/05/23 10:37]
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